• 『潤一郎ラビリンス(16) 戯曲傑作集』(谷崎潤一郎

 タニザキ・ラビリンスもいよいよ大詰め。15巻の『横浜ストーリー』は絶版のため、しばらく読むのは後になりそうなので、さっそく最終巻を読み始め、速攻で読み終わった。次からは新潮文庫から出てる傑作たちを読み進める(だいたいは10代の頃に読んでいるのだが・・・)。

 明治四十二年、私は二十五の歳に始めて処女作を発表したが、それは小説ではなく、戯曲であつた。しかしその頃、われわれの戯曲は文壇では多少注目されても、劇壇では相手にされなかつた。われわれの方でも望みを遠い将来に嘱し、当時の劇壇を全くアテにしないで書いた。
 だから私の初期の作品には、今になつて考へると、実演には不適当な物が相当にある。私は敢えて舞台の約束を無視する気ではなかつたのだが、実地のコツを覚える機会がなかつたために、無視したと同様になつたのである。自然若い時分の私は、血気にまかせ、空想にまかせて、寧ろ小説の一形式のやうな積りで戯曲を書いた。此の集の中にもそんなものが一つや二つはあるかも知れないが、私は思ふ所あつて、「読むための戯曲」も決して一概に捨てたものではないと信ずる。読者はめいめいの頭の中に舞台を作り、照明を設け、自由に俳優を登場させて、それらの戯曲が与へるところの幻想を楽しんで下さればよい。

 その意図通りに「楽し」んだ結果、『お国と五平』という傑作を見出したのだった。

  • 恋を知る頃
  • 恐怖時代
  • お国と五平
  • 白狐の湯
  • 無明と愛染

  • 『潤一郎ラビリンス(14) 女人幻想』(谷崎潤一郎

 このあたりのタニザキの「差別的」感性に深い共感を覚えてしまう。

 そうさ、大概の日本人はみんな駄目さ。己はお前の言う通り十人並かも知れないけれど、大概の日本人が駄目だから従って己も駄目になるのさ。若し人生其の物を藝術化させようと試みるならば、己を始め一般の日本人は先ず貧弱な体質からして直してかからなければ無意味な話さ。よく雑誌の口絵や活動写真などに、日本人が多勢並んで写って居る光景があるだろう。ああ云う写真を見せられると、日本人程暗黒な、卑賤な、非美術的な形態を持って居る種族はないと思うね。西洋人は無論の事だが、獅子だとか羊だとか鳩だとか鷗だとか云う禽獣の類ですら、沢山集まれば其処に一種の美感を生ずるものだけれど、日本人の顔だけは集まれば集まる程醜悪の度を増すばかりなのはおかしいじゃないか。美しい自然の中から美しい藝術が生まれるとしたら、とてもわれわれ日本人などの間から立派な絵画や彫刻が生まれる筈はないような気がする。

  • 創造
  • 亡友
  • 女人神聖

Beethoven;Cello Sonatas

Beethoven;Cello Sonatas

 ぼくは歴史の深淵を覗き込んだ。
 全油彩37作品収録。まさに一家に一冊的存在。修辞学的な講釈や、シンボルの意味作用の解読なんかよりもっと重要なことは、あの光、あの構図、そして青と黄のあの調和。きみはこの少女の瞳に対抗する瞳を持っているか?

フェルメール NBS-J (タッシェン・ニュー・ベーシック・アート・シリーズ)

フェルメール NBS-J (タッシェン・ニュー・ベーシック・アート・シリーズ)

  • 『潤一郎ラビリンス(13) 官能小説集』(谷崎潤一郎

 タニザキが繰り返し書いているのは、男女関係が常に権力構造の中にあるということ。むしろ、ほとんどそれしか書いてないと言っていい。惚れた腫れたなんて甘っちょろいモノではない、死闘がそこにある。主人になるか奴隷になるか、死ぬか殺すか。ふたつにひとつだ。
 ひとりの女性を自分の手で理想の女に仕立て上げてから、その女のもとにひざまずくという『捨てられる迄』では、『刺青』以来のモチーフを執拗に描いている。『熱風に吹かれて』は、明らかに漱石の『それから』のタニザキ版と言える内容だ。ただ、漱石になかったエロティシズムが加えられている(もちろん『それから』のほうが傑作であることは言うまでもないが)。

  • 熱風に吹かれて
  • 捨てられる迄
  • 美男