• 『すべての男は消耗品である。vol.2』(1990/村上龍

 再読。彼の圧倒的な体力と自分の欲望のためなら人を殺すかもしれないほどの行動力は、羨ましさを越えてもはや別次元である。ユーモアと嫌悪とF1に満ちた1990年前後の記憶。オレたち若いオスが「重いものが持てる」だけの存在にならないために。

 セーヌ川沿いはキスするカップルでいっぱいだ。セーヌ川だから許されるのだ。荒川では許されない。なぜか?どんなアホなガキにも快楽へ向けて上昇する可能性はある。若いということは「セーヌ川」に挑戦する資格があるということなのだ。キスやおまんこを我慢しろと言っているわけではない。そういうのは人目のないアパートでさっさとすまして、あとは「セーヌ川」をめざしたほうが能率的だと言っているのである。

 ごくナチュラルに、女性が仕事を得ている。彼女達は、自立しているから、盲目的に男に頼る必要はない。つまり、数いる中から男を選べるわけだ。ますます君達はおまんこの機会を逸するようになってしまうんだよ。だからといって、チクショーチクショーと叫びながら夕陽の海岸を走ったって、何の解決にもならない。

 新婚の団体は実に異様だ。中には当然かっこいいカップルもいるが、中には当然、座敷牢に閉じ込めておいた方が本人のためではないか、と思うようなカップルもいる。そういう博物学的に興味があるようなカップルほど、夏のオーストラリアで意味もなく白昼抱き合ったりしているのである。まあ、わからなくもない。苦節二十数年、やっと大っぴらにセックスできる相手が見つかったのだ。その喜びは大いに理解できるのだが、誰もブスとブ男のキスなど見たくないのである。