十七年前、コインロッカーの暑さと息苦しさに抗して爆発的に泣き出した赤ん坊の自分、その自分を支えていたもの、その時の自分に呼びかけていたものが徐々に姿を現わし始めた。どんな声に支えられて蘇生したのか、思い出した。殺せ、破壊せよ、その声はそう言っていた。その声は眼下に広がるコンクリートの街と点になった人間と車の喘ぎに重なって響く。壊せ、殺せ、全てを破壊せよ、赤い汁を吐く硬い人形になるつもりか、破壊を続けろ、街を廃墟に戻せ。

 何のために人間は道具を作り出して来たかわかるか?石を積み上げてきたかわかるか?壊すためだ。というまるでバタイユ(『呪われた部分』を参照)のような思想が一貫している。生産ではなく消費、創造ではなく破壊。物語の最後には徹底した破壊の末に創造が生まれる瞬間が見られるが、キクとハシが破壊衝動に貫かれている一義的な理由はコインロッカーに捨てられた、誰からも必要とされていない人間だからである。だが、もちろんコインロッカーに捨てられたのはキクとハシだけではない。

 それにしてもあんた達いい色に焼けてるね、サーファーかい?白いスーツで決めてるところ見ると、サーフシティ・ベイビーズだね?店員が金を数えながらそう聞く。ヘルメットの顎紐を締めて、いや違う、とキクは言った。
 俺達は、コインロッカー・ベイビーズだ。

 俺達は、コインロッカー・ベイビーズだ。コインロッカーもコンクリートの街も同じだ。この「閉塞感」という主題は大江健三郎的だが、そのスピードと「語り」によって異っている。長篇でありながら、無数の掌編の組み合わせで構成されていることと、精神異常者の論理を超えた支離滅裂な「語り」が偏在することで、この『コインロッカー・ベイビーズ』という傑作は(物語としての)閉塞感からの自由を実現している。

 お前、お前はあれだろ、知ってるぞお前、お前は悪い人だろ、影を踏んでいい人を不幸にするあれだろ、私は我慢してるからわかるんだ、いくらだ五百円か?金で解決しようとしてるなお前は、私は五百円なんて持ってないぞ、持ってないけど私はいいんだ、いつも神様にありがとうありがとうありがとうなんだ。

新装版 コインロッカー・ベイビーズ (講談社文庫)

新装版 コインロッカー・ベイビーズ (講談社文庫)