今週も八戸出張である。監査という毒にも薬にもならない、会社が提出する書類をチェックするだけのド近眼のアリンコみたいな仕事でも出張は楽しい。初日は休肝日としてラーメンを食べるのが通例だ。それにしてもまずいラーメンだった。替え玉して味が薄くなったのが原因かなとホテルに帰ってきて考えてみたのだが、そういう問題じゃないな、ありゃ。
 まずいラーメンを出すラーメン屋のオヤジというのは悲しいなと思ったが、なぜ悲しいか考えてみた。第一に、自分のラーメンがまずいことに気づいていない可能性がある。味覚というのは主観でしかないが、それもある一定以上のレベルから先の話である。ここに、当該オヤジはラーメンがまずいことに気づいていないのではなく、うまいラーメンを食べたことがない、という仮説が成立する。話題はシャラン鴨のパテではなくラーメンなのだから、うまいラーメンを食べたことがないのは経済的理由ではなく欲望の問題である。つまり「欲望の薄い男は悲しい」と結論づけることができる。
 第二に、自分のラーメンがまずいことに気づきながらそれを出し続けている可能性も考えられるだろう。ラーメンの販売は商行為だから、当該オヤジが「まずいラーメンを客に食わせることに快感を得る倒錯的趣向の持ち主」である可能性を排除する。ラーメンがまずければうまくしたほうがよい。つまり、当該オヤジはラーメンの味すらも変えられない男なのである。何かを変える可能性は自由であることに起因する。当該オヤジに「不自由な男」というレッテルを貼ると、ここに「不自由な男は悲しい」という新たな結論が導き出される。そしてこの不自由さは決して他人事ではないのである。