• 『テニスボーイの憂鬱』(1985/村上龍

 『テニスボーイの憂鬱』は、村上龍の数少ない長篇と言える。文庫にして600ページは、彼の中でトップ5の長さだろう。その長い小説の中でテニスボーイは、テニスをし、息子と遊び、海外旅行をし、2人の愛人とSEXをする。それだけだ。

 コジマさんは、暗くなってボールが見えなくなるまで壁打ちを止めないだろう。奥さんは編み物をしながら待ち続ける。やがて、夕暮れの中を二人は自転車で家に向かう。あしたはまた晴れや、とコジマさんは思うだろう。またテニスをせなあかん、またあしたも壁に向かってボールを打たなあかん、今夜また女房とキスをせなあかん、あれもせなあかんかも知れん、そう思うことだろう。コジマさんの呟きが聞こえるようだ。ゆううつだゆううつだゆううつだゆううつだゆううつだゆううつだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この「憂鬱」はテニスボーイにも当然襲ってくる。無為の日々から憂鬱や倦怠が襲ってくるわけではない。無為の源泉はただの無気力だ。憂鬱と倦怠は、テニスボーイのように絶え間ない興奮と快楽の中から生まれてくる。
 親の財産でレストランを経営し、毎日まともに働かないでテニスに耽り、毎晩バーで友人たちと呑み歩き、ベンツの450SLCを乗り回し、見たこともないような美しい女を超高層ホテルの一室でひざまずかせてフェラチオをさせる日々から、この途轍もない憂鬱と倦怠が襲ってくる。この憂鬱と倦怠を小説全体で感じさせるために、この長さは必要だったのだろう。
 じゃあそんな生活に憧れている僕たちはいったいどうすればいいのか。絶対に希望はないぞ、とランボーは言った。村上龍なら、そんなこと俺は知らない。と言うだろう。

 人生はテニスのシングルスゲームと同じで、誰かが誰かを幸福にすることなどできない。他人にしてやれることなど何もない。他人のことをわかってやるのも無理だ。他人を支配するのも無理だし、支配されることもできない。人生はシャンペンだけだと思うか?そう吉野愛子は聞いた。そうシャンペンだけだ、そう答えればよかったとテニスボーイは今思っている。シャンペンが輝ける時間の象徴だとすれば、シャンペン以外は死と同じだ。キラキラと輝いていなければ、その人は死人だ。キラキラと輝くか、輝かないか、その二つしかない。そして、もし何か他人に対してできることがあるとすれば、キラキラしている自分を見せてやることだけだ。

 テニスボーイはこう思う。この小説を読んで、キラキラと輝かなければ!と部屋着のままam/pmメンズ・ノンノなんかを買いに行ったりしていたら、即アウトだ。じゃあどうやったら輝けるのか。そんなこと俺は知らない。

テニスボーイの憂鬱 (幻冬舎文庫)

テニスボーイの憂鬱 (幻冬舎文庫)