• The Affair Of Two Watches
  • 神童
  • 詩人のわかれ
  • 異端者の悲しみ

 小説家自身が主人公と思われる4編を集めた第3集。大学時代の怠惰な生活の「The Affair Of Two Watches」と「異端者の悲しみ」、小説家として軌道に乗りはじめた30歳前後の北原白秋との記憶を幻想的に綴った「詩人のわかれ」、そして幼少時代から18歳までの天才児からの堕落を描いた「神童」。この「神童」は、小学校時代に平仄のあった漢詩を披露し、プラトン英訳全集を読破し、さらには独学でドイツ語を学んでいた少年が、己の煩悩に目覚め堕落していく様子を見事にマヌケに描いてみせた傑作である。

 生まれて始めて、ふとした機会から彼が其の罪悪の楽しさを味わったのは、一年以上も前のことであった。程なく彼は其れが道徳上の罪悪である事を悟り、浅ましい所行である事をも察した。そうして、其れが生理的にも如何程戦慄すべき害毒を齎すかを感付いた頃には、もはや牢乎として動かし難い習慣となって居たのであった。彼は無意識の間にお町夫人の容色を恋い慕い、令嬢鈴子の肉体に憧れた。芳町の新道へ使いにやられて、藝者や半玉の姿を見て来た晩などは、殊更幻の悪戯に悩まされ、餌を嗅ぎつけた野獣のように悶え廻った。どうかすると彼は晝間でも便所へ這入って三十分ぐらい顔を見せない事さえあった。
 一日一日に骨を殺ぎ肉を虐げて、傷ましく荒んで行く心の痛手は眼に見えるように想われた。慣れゝば慣れる程犯罪の度数は頻繁になって、殆ど毎日缺かさなかった。

 なんのことはない、オナニーの描写である。オナニーをし過ぎるとバカになる、という都市伝説はどうやら大正四年にも通用していたらしい。俺はオナニーなどしたことがないので、詳しい事よくわからないが、「餌を嗅ぎつけた野獣のように悶え廻」るのなら1度くらい試してみたい。この少年は最後にこう独白して、芸術に没頭していく。

 己は禅僧のような枯淡な禁欲生活を送るにはあんまり意地が弱過ぎる。あんまり感性が鋭過ぎる。恐らく己は霊魂の不滅を説くよりも、人間の美を歌うために生まれて来た男に違いない。己はいまだに自分を凡人だと思う事は出来ぬ。己はどうしても天才を持って居るような気がする。己が自分の本当の使命を自覚して、人間界の美を讃え、宴楽を歌えば、己の天才は真実の光を発揮するのだ。