ミシェル・フーコーは自分を哲学者でも歴史家でも思想史家でもなく、「Artificier」と定義した。これは現在刊行されている日本語訳では「花火師」と訳されているが、より正確には「爆破技師」とされるべきである。では、何を爆破するか。恐ろしく簡単に言うと、不可視の制度であり、あらゆるものの起源を探求する書物からその仕事ぶりが伺えるのだが、では、爆破技師に必要な資質とは何か。まずは、この広大で肥沃な大地の中で硬いところとやわらかいところを正確に区別し、より効果的に対象に打撃を与えることができる爆薬の設置場所と火薬の量を見極める感性と分析能力である。その意味では、爆破技師であるにはまず地質学者でなければならない。そして、この「爆破」は比喩ではなく、文字通りの「爆破」である。
 では、蓮實重彦は爆破技師たり得たかと言えば、実はそうではない。それは、ミシェル・フーコーとの資質の違いからではなく、爆破する対象が「マントル」であることが原因である。「狂者」や「監獄」のような限定的な断層に爆薬を仕掛けるのではないことが、その困難さの根源なのだが、彼は誰もが気にも留めなかったマントルを爆破対象と指定するほどの優秀かつ無謀な地質学者ではある。そこは、ひとまず「説話論的な磁場」と名付けられているが、命名自体は重要ではない。それは、人が話すときに、あるいは物語を書くときに不可避的に所属しなければならない一種の場である。「説話論的な磁場」は自然現象のように見做されているが、実は極めて歴史的な生成過程を持っている。1850年前後(フランスの第二帝政期)をひとまずその起源として、フローベールの『紋切型辞典』の唯一の主題、「ひとはいかにして現代的な言説から自由になるか」を巡る目も眩むような地平に読者を誘っている。1850年以前は、物語は知に従属し「知っている者だけが語ること」ができた時代、それ以降は知と物語が相互補完的に共犯関係を結び「知らない者でさえが語ることができる」。というよりも、知っているとは、一つの物語を語ることができる能力と同義語の時代としている。フローベールを例に挙げてみれば、「フローベールは『ボヴァリー夫人』を書いたフランスの小説家である」という物語を語ることができれば、人はフローベールを「知」っていると錯覚する。つまり、「知」は物語によって顕在化するのだ。そのとき、その言説は決まって他者の言葉であり、他者の物語である。他者の言葉とは、他人と共有可能というほどの意味だが、語る必然性が全くないにも関わらず「語らされてしまう」場こそが、「説話論的な磁場」だし、もっと言えば、語ることでその磁場の登場人物の。当然「フローベール」は代替可能な固有名詞なので、主題は「オリンピック」でも「佐々木希」でも一向に構わない。物語とは主語と述語さえあれば機能するほどに強固なのだ。
 では、いかにしてこの現代的言説への戦略を組織するか。村上龍なら「そんなことオレは知らない」と言うだろうが、筆者はその後プルーストサルトルポール・ヴァレリーロラン・バルトらを招致してその戦略を詳細に探求していく。決して「間テクスト性」や「超=虚構」といったメタ・レベル(メタ・レベルでさえ一種の物語であり他者の言説であり時代の要請なのだから当然だが)に立つことのない批評家の倫理が刺激的なのだが、それは本文に当たらなければこの爆薬の効果はゼロだし、眠たいし、要約という翻訳行為自体も「紋切型」に終わるしかないのでここで唐突に中断する。「労働が終わり、生産が終わり、経済が終わる」としたボードリヤールの愚かさ(「愚かさとは、結論を口にせずにはいられない精神のことである」というフローベールの言葉とこの言葉すらも一つの結論に過ぎないという困難さを思い出そう)を目にし、真に読むべきはヴァルター・ベンヤミンだと思った。

物語批判序説 35ブックス

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