• 『明日できることは今日はしない—すべての男は消耗品である。Vol.5』(1998/村上龍

 そういえば、少し前に"Men Are Expendable"のVol.5『明日できることは今日しない』を再読した。同じタイトルのビジネス書があるので買うときには注意してください。
 ちょうどサッカーのエッセイも多くて、かなり楽しめた。サッカー関連の言葉を引用する。時期的には1995年の秋頃から約3年間だが、いまでも多くの部分で当てはまる。解説はインテリ巨乳女優・佐藤江梨子

 スポーツは残酷だ。子供にだってわかってしまう。Jリーグのサッカーはレベルが低い、というのは地球が自転しているというのと同じくらいはっきりした事実だ。

 科学的なトレーニングに支えられた高い技術だけが、集団を横断するのだから、世界に参加するために必要なのは苦労ではなく、まさに、技術なのだ。語学力を一つの技術と考えるとわかりやすいかもしれない。他の国で何か仕事をやろうとするとき、「これまでの苦労」などというものは何の役にも立たないし、評価されない。

 バスケットボールのようなハイスコアのゲームでは、日本代表がドリームチームと試合すると一万回やっても一度も勝てない。ラグビーだってオールブラックスや南ア代表には絶対に勝つことができない。ノーチャンスだ。だがサッカーは違う。だからサッカーは階級社会であるヨーロッパや貧富の差が激しい中南米で人気がある。弱者が夢を見ることができるわけだ。

 サッカーにおいてゴールは常に奇跡だ。その奇跡は、ある選手の突出したプレーヤあるいは信じられないようなミスやまた神が演出したとしか思えないような偶然によって生まれる。だからサッカーを見る人は奇跡を見に行くのだ。奇跡の成立過程を見ると言ってもいい。奇跡の成立する過程が、歴史であり物語なのである。

 日本の応援団は、九十分間ずっと声を揃えて応援する。しかもリーダーによって統制されている。他の国のサポーターも声を揃えて応援することがあるが、リーダーはいないし自然発生的なものだ。日本の応援団はのべつまくなしに声を出すから、本当にピンチになったときに効かない。それで、その日本の応援団のレパートリーの中に、「日本のゴールが見たーい、見たーい、見たーい」というのがあって、わたしは気分が悪くなってきたのである。見たーい、という甘えは子供のものだ。見たかったら大人は何とかしなくてはいけない。見ることを実現させるために何とかするはずだ。応援団は自分でボールを蹴ることができないから、ピッチ上の選手たちにそのことを託す。託しているわけだから、見たかったら信じてじっと待つしかないのに、日本の応援団は、見たーい、見たーい、と子供のように甘えるのだ。そういうことは本来非常に気味が悪く異常で恥ずかしいことなのだが、日本では好感が持たれる場合がある。