三四郎は徹底的して「見る人」である。それは『坊っちゃん』の主人公が無鉄砲なイメージとは裏腹に受動的な人物として描かれたことと似ている。彼は広田先生を中心とする知的サロンに加わったあとも、あくまで受動的な関わり合いしかしておらず、徹底して傍観者の立場を崩さない。その傍観ぶりはほとんど『吾輩は猫である』の猫と言ってもよい。小説中で彼が唯一起こした行動は金銭の貸し借りだが、それも与次郎に強いられたものである。
 また、三四郎は徹底して「寝る人」でもある。漱石的作品の主人公がよく寝る人なのは周知のとおりだが、漱石においては主人公が寝ている隙に、手紙が届いたり誰かが訪ねて来たりといったコミュニケーションが発生する。「寝ること」がすなわち物語の推進力になっているのだ。小説は下のように始まる。

 うとうととして眼が覚めると女は何時の間にか、隣りの爺さんと話を始めている。

 『坊っちゃん』の場合は、坊っちゃんが自室の畳の上で大の字で横になっているところへ清からの手紙が届いたり山嵐が来訪したりする。物語の説話的な構造は似通っている両作だが、決定的に異なるのはやはり美穪子の存在だろう。田舎者で非モテ三四郎には荷が重いファム・ファタールだ。美穪子の媚態について漱石は「アンコンシャス・ヒポクリット(無意識の偽善家)」と言っている。だが、真に無意識の偽善家は三四郎のほうである。鈍感さの罪、愛されていることに気づかない罪。罪には罰がつきものだが、その罰に当の三四郎が堪えているかどうか、それは誰にもわからない。

 『三四郎』のそれからである。『それから』において、漱石は、「無意識の偽善」を、あるいは「我が罪」を、真正面から追及しはじめる。そして、それは彼を急速に"近代小説"の世界に入りこませる。しかし、くりかえしているように、『三四郎』は、やがてそこから本格的な作品が書かれるような萌芽的作品として読まれるべきではない。田舎から都会へ移動する『三四郎』は、都会から田舎へ移動する『坊っちゃん』と並んで、青春小説の古典として愛読されてきている。これらの小説は構造的に単純であるが、むしろこの単純さこそが魅力を与えている。どんなリアリスティックな近代小説も、これらの作品で単純な勁い線でデッサンされた人物群像ほどに"リアル"な印象を与えないだろう。彼らは、初期の漱石が形成した言語空間においてのみ、活きつづけている。(柄谷行人

三四郎 (新潮文庫)

三四郎 (新潮文庫)