書店に行けばマニュアル本やハウツー本ってのがたくさんあって目がチカチカするんだけど、ご多分に漏れず小説の書き方マニュアル。みたいなのもある。当たり前のことだけど小説に「書き方」なんてものはない。会話文の書き方とか場面展開の方法、比喩表現について、好例として漱石やらタニザキの例文が抜粋されたりしてるんだけど、そういうものを信じているうちは絶望的というほかない。参考までに、と読む必要もない。
 なぜなら彼らの「小説」はそれらの技術を使っているから「小説」として存在しているわけではないからだ。技術を統合して「小説」になるわけではない。ゴダールの映画がコラージュに溢れているからといって、じゃあコラージュをやったから「映画」になるわけではない。ワンシーン・ワンショットを多用したからといって「映画」になるわけではない。溝口健二の「映画」を分析したら、たまたまワンシーン・ワンショットを多用していただけだ。逆は真ならず、なのだ。
 大事なのは「書きたい」というモチベーションを保つこと、そして自分にとって大事だと思える小説を読み続けること、これしかない。「自分にとって大事だと思える小説」を持っている人はその時点で一歩リードだと思う。仮にそんな小説が赤川次郎や西村京太郎だったら、その時点でアウトだ。来世でがんばるしかない。一般的な傑作(カフカとかボルヘスとか)を読み続けるのもいい。それらの「傑作」小説が他と異なる点が必ず見えてくるはずだ。
 勘違いしないで欲しいのだが、オレは技術を否定しているわけではない。技術が必要になる場面は必ずある。たとえば、一編の小説を書いたあと、一つの映画を作ったあとにその作品を見直してみる。すると目も当てられないシロモノだ。そして、その目も当てられなさは技術に起因することが多い。そのときにはじめて自分にとって必要な技術が見えてくる。それを身につければいい。今日は久しぶりにまともなことを書いたからぐっすり眠れる。いずれにしてもTake Actionするしかない。1エステ・1アクションだ。