『三四郎』のそれから、つまり『それから』では代助と三千代の姦通が描かれる。だが、当然のこととして、これは『三四郎』の続編として読むべきではない。
 ここで「アンコンシャス・ヒポクリット(無意識の偽善)」を持つのは代助のほうである。彼が親友・平岡と三千代の仲を取り次いで結婚させたにもかかわらず、その3年後には三千代を愛している、と言って平岡から略奪し、家族からも勘当同然で社会に放り出される、という単純な物語なのだが、奇妙なのは、代助が三千代を愛していることを全く認識しておらず、終盤になって突如思い出すところである。そんなことは現実にはあり得ない。あり得ないことが起こるのが小説だ、と言いたいわけではない。姦通とはすなわち「制度(結婚)」と「自然(恋愛)」のせめぎ合いだ。その割には、代助の心理的葛藤はほとんど描写されないし、三千代を愛していたことすら忘れていた!のだから、全く救いようのない男としか言いようがない。三千代を愛していたことを忘れていたけれど、たったいま思い出したから愛している。だから友人から略奪する。という寸法だ。漱石の考える「自然」とは、無意識のことと言ってよい。フロイト的に言えば「忘却」も無意識の抑圧なのだから。
 終盤は、現在ニートの代助(彼は資産家の息子で優雅な仕送り暮らしをしている)の働きたくないけれど結婚するからには働かねばならぬ、でも嫌だ、という問答が繰り返され、社会に放り出される直前の彼の狂気で締めくくられる。

 飯田橋へ来て電車に乗った。電車は真直に走り出した。代助は車のなかで、
 「ああ動く。世の中が動く」と傍の人に聞こえる様に云った。彼の頭は電車の速力を以て回転し出した。回転するに従って火のように焙って来た。これで半日乗り続けたら焼き尽くす事が出来るだおると思った。
 忽ち赤い郵便筒が眼に付いた。するとその赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高く釣るしてあつた。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸て来て、代助の頭に飛び付いた。小包を郵便を載せた赤い車がはっと電車と摺れ違うとき、又代助の頭の中に吸い込まれた。烟草屋の暖簾が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりと焔の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した。

 『それから』の「それから」は『門』である。『門』の主人公は宗助。親友を裏切ってその妻と結婚した宗助は罪悪感に苛まれている。その名前からわかるように、宗教に救いを求めていくのだ。

それから (新潮文庫)

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