• 『映画への不実なる誘い—国籍・演出・歴史』(2004/蓮實重彦

 何というか、恥ずかしながらも再入門、っていうね。ほとんど、"再履修とっても恥ずかしゼミナール"ですわ。まったく再発見がなかったのは、ほぼ血肉化している証拠。ここでは、同じ作品のリメイクや翻案の一同に並べて、演出上の差異について講義している。あるいはモルフォロジー(物語形態)が同一の作品について。

 優れた芸術作品、例えばトルストイと、トルストイを映画化した溝口健二のどちらが偉大かといえば、一世紀後には溝口健二のほうが偉大だといわれる時代が必ず来ると私は思っています。創意のない文学作品の映画化はたくさんありますが、それに対して、溝口健二が見事にやったように、たんなる文学作品の映画化といったものとは違った、二度目であるが故に持ちうる迫力といったものが、溝口の映画には存在します。複製であるが故に持ちうる迫力というものが映画にはある。だが、それは決して唯一無二の正統的な芸術作品が誇る他を圧した輝きではありません。類似したものがあたりに氾濫している環境のなかでの、類似を否定することのない差異の迫力といったものなのです。

 20世紀の面白さは、モルフォロジーとテマティスムの一貫性が、ちょっとした細部の代置や置換によって、いきなり表情を変えてしまうことにあります。構造は同じでありながら、まるで異なる力をあたりに波及させるのです。それは、模倣が差異を生産するといってもよいでしょう。映画は、20世紀の文化的な生産様式のなかに、この質的な差異を導入しました。であるが故に、無視できないのです。(中略)大衆消費社会と呼ばれる20世紀の文化を考える場合に、この差異への感性が不可欠です。

映画への不実なる誘い―国籍・演出・歴史

映画への不実なる誘い―国籍・演出・歴史