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 「作る立場」と「売る立場」というのは根本的に異なっていて、特に「売る立場」には困難がついてまわります。それをマルクスは「命懸けの飛躍」と呼びました。簡単に言うと、共同体の同一性をアテにできない、ということです。つまり「何が/なぜ売れるのかわからない」のです。
 しかし、「作る立場」を芸術一般に敷衍して考えてみると、映画の特殊性が浮かび上がります。映画には莫大なコスト(費用・時間・人員)がかかるため、必然的に「作る」前にそのコストを調達するアテを見つけなければなりません。「作る立場」の中に「売る立場」が包含されているのです。金を集める際には、当然投資家の承認を得る必要がありますが、そこで製作者は不可避的に「売る立場」を強いられるのです。鉛筆1本で書く小説や、ラップトップで作る音楽とは異質であることに注意すべきだと思います。つまり、映画が売れる(上映される)には、「売る立場」を2度経験しなければなりません。もちろん、単に売っている(配給している)人を卑下しているわけではない。"実践家"として生きているすべての元「天使」たちに秘かに連帯の挨拶を送りたいと思っています。彼らは互いに自分が元「天使」であることを識別できるし、"認識者"としての「天使」の無力を知っているからです。そして、この連帯は人間的連帯とは違ったものとなるでしょう。