• 『潤一郎ラビリンス(9) 浅草小説集』(谷崎潤一郎

 浅草を舞台にした3編を収録。タニザキはこの他にも浅草を舞台にした小説を書いている。彼がボードレールを愛したのは有名だが、ボードレールが『パリの憂鬱』でパリの裏町の醜悪のなかに戦慄的な美、永遠の美を見出したように、「グチャグチャした、生油臭い胸の焼けるようなシチュウやビフテキやカツレツに飽満した胃袋」のような浅草を描いている。
 未完の長編とも言うべき『鮫人』は、まさに「描写」に終始徹底した秀作。250頁以上あるなかで、時制が半日程度しか進んでいない、というまるで『ユリシーズ』のような作品だ。登場人物の梧桐寛治の容貌を数頁にわたって描写しており、小林秀雄は「この饒舌な描写によって読者が、果たして梧桐といふ男の顔を鮮やかに眼に浮かべる事が出来るか、出来ないかなどといふ事は全く問題にならない程、この文章は壮観で、まことに洒落や冗談で出来る仕事ではない」、そして「単なる才能の氾濫として説明出来難いものだとすれば、明らかに、肉眼が物のかたちを余す所なく舐め尽くす不屈の執拗性の裡に陶酔しようとする、氏の本能的情熱を示す好例」であるとホメてるのかケナしてるのかわからぬ批評をしている。
 「描写」とは歪みであり、過剰である。たとえば、人の顔を見るのに5〜10秒も見たら十分「舐め尽くす」と言えると思うが、この描写を「読む」には5〜10分は必要だ。つまり、「見る」ことと「読む」ことには絶対的/時間的な差異があるので、まず時間的な歪みが生じる。そこに比喩表現が加わって意味が錯綜してくると過剰が生まれ、読者は目眩にも似た感覚に陥る。この感覚こそがタニザキを読む快楽なのだ。