ジル・ドゥルーズが『マゾッホとサド』で「マゾヒストは本質的に訓育者なのである」と書いたことからわかるように、その男女関係が一種の狂言でしかないことである。その狂言は、マゾヒストがパートナーを教育することから始まる。彼らが主従関係を演じていることは、マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』のワンダとゼヴェリーン間で契約書が交わされていることからもわかる。
 つまり、「日本に於けるクリップン事件」で書かれているようにマゾヒストは常に矛盾を抱えている。その矛盾とは、それはどこまでも行っても虚構の関係でしかなく、虚構の関係ならば「絶えず新奇な筋を仕組み、俳優を変え、目先を変えて、やって見たい気にもなる」のだ。だが、矛盾がなければ人間は思考しないので、"小説家にマゾヒストが多い"というのは仮説として成り立つのではないか。俺は谷崎が真性のマゾヒストかどうかは知らないし興味もないが、彼が描いたマゾヒズム作品は多く、この短編集に収録されたのはその一部でしかない。「饒太郎」は、「『美』というものが全然実感的な、官能的なセ世界にのみ限られて居る為に、小説の上で其の美を想像するよりも、生活に於いて其の美の実体を味わう方が、彼に取って余計有意味な仕事になって居る」という谷崎的(オスカー・ワイルド的?)思想が反映されている。小説家・饒太郎は、「人生こそ芸術を模倣する」と言わんばかりに己の快感原則に従って奴隷化する。その様は痛快さを通り越してブリリアントである。

  • 饒太郎
  • 蘿洞先生
  • 続蘿洞先生
  • 赤い屋根
  • 日本に於けるクリップン事件