• 『潤一郎ラビリンス(6) 異国綺談』(谷崎潤一郎

 タニザキが西欧の憧れたのは有名な話だ。彼が同時代人としては珍しく映画を愛したモダニストだったのは、おそらく現代的な西欧の表層がそこに現れているからである。
 一方、古代の中国やインドについてもエキゾチズムの観点で大いなる関心を持っていて、とくに西湖は古くから白楽天等によって詠まれた漢詩文が多く存在する文学的トポスである。同時期に西湖を訪れた芥川龍之介は「私はとてもこの分では、『天鷲絨の夢』の作者のやうに、ロマンティックにはなれないと思った」と書いている。実際には観光地特有の俗悪化したただの泥池だったことは明らかだろう。だがタニザキはそこに「時間を超越した永遠性」(エドワード・サイード)を見出した。「世にも不思議な歓楽に耽って居た温秀卿という男」とは、ほとんどタニザキ自身である。
 母の死の直後に書かれた『ハッサン・カンの妖術』でその後繰り返される母性思慕のモチーフが登場する。

 予は、その外無数の荘厳な世界や暗澹たる世界を見たが、就中、最も予の心を傷ましめたものは、鹹海中の婆堤の洲に住んで居る、我が亡き母の輪廻の姿であった。
 母は一羽の美しい鳩となって、その島の空を舞って居た。そうして、たまたま通りかかった予の肩の上に翼を休めて、不思議にも人語を囀りながら、予に忠告を与えるのであった。「わたしはお前のような悪徳の子を生んだ為めに、その罰を受けて、未だに佛に成れないのです。私を憐れだと思ったら、どうぞ此れから心を入れかえて、正しい人間になっておくれ。お前が善人になりさえすれば、私は直ぐにでも天に昇れます」ーこう云って啼く鳩の声は、今年の五月まで此の世に生きて居た、我が母の声そっくりであった。
 「お母さん、私はきっと、あなたを佛にしてあげます」
 予は斯く答えて、彼女の柔らかい胸の毛を、頬に擦り寄せたきり、いつ迄も其処を動こうとしなかった。

  • 独探
  • 玄奘三蔵
  • ハッサン・カンの妖術
  • 秦淮の夜
  • 西湖の月
  • 天鷲絨の夢