• 『すべての男は消耗品である。Vol.6』(2001/村上龍

 このエッセイ集をつまらないと言う人がいる。文句があるなら村上龍に直接言わなければ意味がない。

 日本のメディアは、国民に「わからせる」という絶対的な使命を持っている。知らせるのでも伝えるのでもなく、「わからせる」のだ。だから出来事や事件は必ず「理解可能」なこととして報道され、整理される。

 市場原理が支配する競争社会を生き抜くためには、特別に専門的な技術、つまり長い訓練を必要とするスキルと知識が必要になる。長い訓練に耐えるためには、モチベーションの持続が必須となる。つまりそのことが好きでなければならない。

 集団の概念の中には、その集団が永遠に存続するという前提がある。それがある限り、たとえば小説も永遠に再生産されていく。それは洗練とマニエリズムを生むが、本当にその小説が必要かどうかという問いは決して生まれようがない。小説として表現すべき情報がなくなるわけがないという前提がこの国にはある。もちろんその前提は間違っているが、小説として表現されるべき情報がないにも関わらず小説を生産することへの恥の意識も当然ないので、その間違いは永遠に気づかれることがない。

 音楽とダンスの国、というのは、まず良質な音楽とダンスが存在する国であり、それらを国民が総意として求めている国でもある。政府が音楽とダンスを奨励しているわけではない。国民の一人一人が、音楽とダンスを必要としているということだ。そういう国では、どうでもいい音楽が歯医者の待合室で流れていたりしないし、人々は街角でどうでもいい音楽で踊ったりしない。

 二十歳を過ぎて、専門的な技術や知識の習得もないまま、十年、二十年が過ぎると、低いランクの職業に就くしか選択肢がなくなり、しかもそれは他人にこき使われることを意味する、というようなことをフリーターに向かって言う大人が誰もいない。

すべての男は消耗品である。〈vol.6〉

すべての男は消耗品である。〈vol.6〉