この書物は評論でも批評でもない。1950年〜1974年までの長い間に渡って、ロベール・ブレッソンが折を見て綴った「倫理」的な断想である。また、映画作家としてのマニフェストでもある。

  • シネマ(映画=撮影された演劇)ではなくシネマトグラフ(活動写真=運動状態にある映像と音響を用いたエクリチュール)を顕揚すること。
  • 1つの映像に絶対的な価値を持たず、他の映像・音響との関係性を重視すること。
  • 俳優ではなくモデル(このモデルの概念はやや難解)を使うこと。

 200頁近くあるこの書物で、ブレッソンは奇跡的に上の3つのことしか書いていない。3つ目について。職業俳優の完成された「演技」にあるのは真実味である。「モデル」の使用が意図するものは、真実味ではなく、真実そのものの描写に他ならないのだが、もちろん素人を使うことではない。例えば目の前にカメラがあるとする。あなたはカメラが気になっていつもよりぎこちない。その不自然さは自然であり、また逆に自然に振舞おうとした場合、その自然さは不自然である。ブレッソンはそのどちらも排する。
 彼はモデルに「自分が喋っていることについて考えてはいけない、自分が行っていることについて考えてはいけない」と諭す。数多くのリハーサルの末に「自動化」されたモデル。ここで注意すべき点は、モデルが単なるObject(モノ)ではないということである。「モデル」たちの自動的な声と仕草の虚構劇。つまり、飽くまでフィクションを映画化しつつも、画面から徹底的にフィクションを排すること。その先に一瞬だけ真実(存在あるいは偶然性)が露呈される。彼の言葉を借りれば「自分の内にあるとはモデル自身も思っていないもの」である。それを捉えるのが映画(シネマトグラフ)なのである。もちろん、理解はできても具体的なフィルムでそれを知るのは難しい。オレも不勉強ながら彼の映画は3本しか観ていない。
 また、ゴダールの『映画史』でも数多く引用された本書は、まるでエリック・ホッファーのように哲学者ならざるものの哲学書としても充分刺激的である。彼の倫理が決して禁欲的ではなく、むしろ官能的なのがわかると思う。いくつか気に入ったものを挙げておく。知性とは何よりもまず手足を動かすこと、動かしまくらちよこである。

 現実を、現実でもって修正せよ。

 トーキー映画は沈黙を発明した。

 君に見えているものを人々に見させること、それも、君が見ているようにはそれを見ていない機械を介して。

 鉄のごとき掟を鋳造して自分に課すこと。たとえそれに従うためであれ、あるいはどうにか苦労してそれに背くためであれ。

 何も変えるな。すべてを変えるために。

シネマトグラフ覚書―映画監督のノート

シネマトグラフ覚書―映画監督のノート